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2016/07/22

戦国武将を訪ねて‥ 長篠の戦い「徳川家康」公

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IMG_0989_R 戦国武将を訪ねて‥  長篠の戦い「徳川家康

 

 

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1575年(天正3)3月下旬「徳川家康」「武田軍」からの猛攻に備えて「長篠城」に‥

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作手城主「奥平貞昌」を入れて守りにあたらせた。写真は「奥平家」の家紋「軍配うちわ」

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「家康」の領していた「三河・遠江」は1570年からの3年の間に「武田信玄」により山間部を蹂躙されていて、その後に奪還できたのはこの「長篠城」などわずか。「家康」にとってみれば必ず守らなければならない城であった。

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「長篠城内堀」

ただし「貞昌」の兵力は500人ほど。「家康」が単独で動員できる兵力も数千人ほど。

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「長篠城帯曲輪」

とても1万5000で攻めよせる「勝頼」の軍に対抗できるとは思えない。

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「長篠城本丸」

頼みの綱は同盟を結ぶ「織田信長」の援軍である。しかしその「信長」も畿内の敵対勢力に精一杯の状態であったが、今回ばかりは「勝頼」を叩くべく3万の兵を率いて「岐阜城」を出陣。5月13日のことである。「武田軍」「長篠城」に対する攻撃は猛攻を極め落城寸前かと思われた。しかし「貞昌」はよく戦い「長篠城」を守り続けていた。「貞昌」は前の年「武田」方から「徳川」方に寝が入っている事もあり一度は「武田家」を裏切った以上、絶対に降伏はできない。しかし13日には「兵糧蔵」が破られれてしまう。

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絶体絶命の5月14日、夜「貞昌」は決断する。それは家臣である「鳥居強右衛門」を使者として約65km離れた「岡崎城」へ援軍要請として走らせる事であった。

「信長」「家康」のいる「岡崎城」に到着したのは14日。まさに「長篠城」の落城寸前の時である。

「強右衛門」は5月15日のうちに「岡崎城」にたどり着き「貞昌」の書状を手に窮状を訴えた。この時「岡崎城」にはすでに「信長」の援軍3万人が着陣していて「家康」の手勢8千と共に出撃する態勢であった。「強右衛門」は一刻も早く、この吉報を伝えようと「長篠城」に引き返すが城に入る事ができず5月16日早朝「武田」の兵に発見され捕らえられてしまう。死を覚悟の「強右衛門」「武田」の厳しい尋問に臆せずむしろ誇らしげに「織田・徳川」の大軍が数日のうちに到着することを語った。焦った「武田」「強右衛門に城兵に向かって「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と叫べと持ちかける。代償は「強右衛門」の命と城兵の命もだとも付け加える。「強右衛門」はこれを承諾。

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朝、この場所に裸で縛りつけらた「強右衛門」は「城中の皆よく聞け」と叫んだ。集まった城兵に向かって「武田」との打ち合わせとは逆に「援軍はあと少しで来る。それまで持ち堪えよ」と大声で叫んだ。「強右衛門」はその場で「武田」に槍で突き殺されてしまう。しかし「強右衛門」の力強い言葉に城兵の士気は奮いたち最後まで「長篠城」を守り通すことができた。

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「鳥居強右衛門磔死之跡碑」

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「鳥居強右衛門の墓」。現在でも「鳥居強右衛門」は地元の英雄として慕われている。

5月20日「岡崎城」においての軍議後「信長」「家康」の重臣「酒井忠次」「竹谷・形原・深溝・長沢」といった松平一門と自軍の兵2000と鉄砲隊500を加えた4000の別働隊を組織させ奇襲を命じた。別働隊は密かに豊川下流の浅瀬を渡河して大きく迂回し峠を越えて「長篠城」包囲の要であった「鳶ヶ巣山砦」の背後に迫った。翌朝、一気に急襲。不意を突かれた「武田」方は大混乱となり守将の「武田信実(信玄の弟)」「三枝守友」が討ち死にした。この働きにより「武田」方は総崩れとなった。

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「鳶ヶ巣山砦」にある「天正の杉」「酒井忠次」をはじめとする別働隊がここを襲った時にはすでにあった木と言われている。

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「家康」が本陣を置いた「八剱神社」。ここで家臣である「忠次」達の先勝を聞き「家康」もおおいに勢いづいた事だろう。

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「家康」嫡男「徳川信康」が本陣を置いた「松尾神社」。当時17歳。

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設楽原では5月21日の夜明け頃「武田軍」「織田・徳川連合軍」を攻撃。戦いは昼過ぎまで続いた。特に「武田」「内藤昌豊」の部隊は「家康」本陣への突入を試みる。しかし「朝比奈泰勝」にあえなく打ち取られる。「織田・徳川」3000挺からの鉄砲に追撃された「武田軍」は1万名以上の犠牲を出したともいわれる。こうして戦いは「織田・徳川連合軍」の勝利で終結した。

これにより「家康」は三河を完全に掌握する事になる。又、遠江の重要拠点である「諏訪原城二俣城」を攻め「高天神城への攻略にものり出していく事となった。

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